【龍馬伝で話題】岩崎弥太郎についてスッキリ5分で解説。

こんにちは、歴史大好き”こっぷんか隊長”です。

江戸時代から明治時代にかけて、 貧しい生活から一転。

大金持ちに成り上がった岩崎弥太郎いわさきやたろうについて書いていきます。

岩崎弥太郎のポイント

①貧乏人からの成り上がり。

三菱財閥みつびしざいばつの創設者。

龍馬が運営する海援隊かいえんたいの経理係。

④西南戦争の軍事輸送で巨万の富を得る

5分ほどで読めるので最後まで読んで下さると嬉しいです。m(_ _)m

幼少期は極貧生活

岩崎弥太郎いわさきやたろうの生まれは土佐の地下浪人の家ですが、農民と変わらない身分で明治維新の数年前に知人から岩崎という苗字を買いました。

岩崎弥太郎は苗字すらも持っていなかったのです。

それゆえ、裕福さとは無縁の貧しい生活を生まれながらに強いられていました。

しかし上級武士から屈辱的な差別を受けていた弥太郎には「貧しさから抜け出したい!!」 という不屈の闘志と類まれな学問の才能がありました。

不屈の闘志と学問の才能。

弥太郎は幼少期の強い向学心と明晰な知性を認められ土佐で最も高名な儒学者、奥宮慥斎おくのみやぞうさいに学びます。

MEMO
儒教(じゅきょう)は、孔子を始祖とする思考・信仰の体系。紀元前の中国に興り、東アジア各国で2000年以上にわたって強い影響力を持ちます。

wikipedia

そして、弥太郎は奥宮慥斎おくのみやぞうさいの従者として 21才の頃には江戸に遊学し、帰国したときには前参政の吉田東洋よしだとうように見出だされて、東洋の少林塾に入ります。

いずれも地下浪人の子に実現出来るコトではなく、よほどの学才を、披露していた証拠です。 こんなエピソードも残っています。

あるとき、吉田東洋が、後藤象二郎ごとうしょうじろうに、ある宿題を出しました。 後藤象二郎ごとうしょうじろうが提出した宿題は、 彼が考えた回答とは思えないものでした。

吉田東洋よしだとうようが問い詰めてみると、 岩崎弥太郎が代筆したというコトを正直に話したそうです。 これを期に吉田東洋の中で岩崎弥太郎は一目置く存在になったと言われています。

東洋との出会いは、弥太郎の人生を変える転機となっていき東洋が藩政復帰すると、弥太郎も藩の仕事を得るようになります。

弥太郎は東洋が暗殺されたあとも、少林塾で机を並べた後藤象二郎ごとうしょうじろうらとの つながりがあった為、役人としての仕事をなくさずにすみました。

貧困と差別のなかで強い反骨精神を持ち立身出世を志した弥太郎が選んだ道は、まずは学問を究めることでした。

政界との繋がりで豪商に。

時代が明治時代に移った頃の弥太郎は、 大阪で藩営の海運業を取り仕切っていたが、廃藩置県にともない 業務の権利を譲り受け弥太郎個人の海運業商社を手に入れます

社名は三菱商会。のちの三菱財閥みつびしざいばついしずえとなるものです。

三菱財閥創始者

海運業者として新たな舞台に立った弥太郎ですが、 彼には同業他社にはない強みがありました。

それは後藤象二郎ごとうしょうじろうを、はじめとする明治政府官僚との太いパイプです。

弥太郎はこれを存分に利用し、国策情報を事前にキャッチして利益を膨らませていきました。 とくに台湾出兵たいわんしゅっぺい」や「西南戦争せいなんせんそう」における軍事輸送で巨万の富を手に入れるコトに成功します。 

かつて極貧に苦しんだ弥太郎は、 巨万の富を得て東洋の海上王とうようのかいじょうおうと呼ばれるに至り、 その後、為替、保険など金融業にも手を伸ばし日本を代表する大財閥の礎を築きました。

今では「三菱、三井、住友」と、日本三大財閥の中でも最も先に名があがる三菱。

MEMO
三菱グループというと、三菱自動車だったり三菱UFJ信託銀行が有名ですよね。
まさか岩崎弥太郎がつくった会社だとは。。。って感じです。

坂本龍馬との不仲説。

岩崎弥太郎と坂本龍馬さかもとりょうまは不仲だったと伝えられているコトが多いです。

大河ドラマの龍馬伝でも、仲の悪い感じがにじみ出ていましたね。

しかし龍馬の脱藩だっぱんの罪が許され、海援隊と土佐藩が正式に協力体勢を結んだとき、藩命をうけた弥太郎は経理として海援隊かいえんたいを支えました。

当時の日記には、龍馬と酒を酌み交わしたという記述があります。

早くから世界に目をむけたもの同士、意気投合する部分は少なからずあったのかもしれませんね。

ちょっと面白いエピソード

岩崎弥太郎は実は投獄とうごくされていた経験もあります。

投獄のきっかけは、父の酒乱しゅらんでした。

弥太郎の父は飲み屋さんでケンカをし投獄されてしまいます。

弥太郎は、江戸で学問を学んでいましたが、父の知らせを聞き、急いで帰郷し必死に父の冤罪えんざいを求めますが、全く聞いて貰えませんでした。

ここまで来ると普通の人なら黙って家に帰ると思うのですが、 弥太郎は奉公所の門に批判の落書きをしてしまいます。

往生際が悪い!!!!笑

それが役人にバレてしまい弥太郎も父と同じく投獄されてしまいます。

しかしこの投獄中の経験が弥太郎を後々、大出世させる礎となるのです。

獄中で弥太郎は学ぶコトをやめませんでした。

獄中にいた”木コリ”から算術や、商法を習いその後のキャリアに役立てるコトとなります。

転んでもただでは起きない岩崎弥太郎。

木こりから学んだ算術は材木の取引に必要なごく初歩的な算数だったでしょう。

しかし弥太郎は開眼しました。 日本一の学者に儒学を学んでいた弥太郎が、木こりに算数を教わるというのはじつに奇妙に聞こえますが、当時、日本に算数ができる武士はほとんどいませんでした。

なぜなら金勘定というものは、身分の低い商人風情がやるもので、武士道にもとる下衆なものであるとされていた為です。

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