【まとめ】山南敬助について写真つきでスッキリ解説。

こんにちは、歴史大好き”こっぷんか隊長”です。
近年は大河ドラマで堺雅人が演じた、クールで知的な山南が人気を集め、ファンも増えているといいます。

山南は、新撰組で剣術だけでなく文学にも優れ、温厚な人柄は子供からも好かれていました。

しかし近藤との確執から脱走をし、切腹になってしまいます。

本記事ではそんな山南敬助の生涯について、分かりやすく丁寧に解説していきます。
5分ほどで読めるので最後まで読んで下さると嬉しいです。m(_ _)m

山南敬介の重要ポイント

①新撰組の副長→総長

②剣術の達人。

③文学力に優れていた。

④脱走して切腹。

剣術の天才

山南敬介やまなみけいすけは奥州仙台藩で剣術師範けんじゅつしはんを務めていた山南家の次男として生まれます。

10代のころから剣術に身を投じ、江戸でも修行を重ねるようになります。

のちに他流試合で対戦した近藤勇の人柄に惹かれたため試衛館しえいかんに通うようになります。

山南の経歴に関してはいくつか諸説があります。

ひとつには、北辰一刀流ほくしんいっとうりゅう玄武館げんぶかんで千葉周作より免許皆伝を受けたといわれており、もう一方は小野派一刀流を学んでいたとも言われています。

いずれにせよ、山南は剣術の修行に明け暮れており、多くの仲間から認められるほどその実力は確かなものでした。

その後、試衛館しえいかんでは師範代となり近藤勇沖田総司おきたそうじとともに多摩方面へ出稽古にいっては剣術に磨きをかけていきました。

新撰組の副長→総長

(上の画像は土方歳三ひじかたとしぞう)

山南の新撰組での役割は土方と並んで副長でした。

のちに実績や人柄が評価され新撰組NO. 3である総長に任命されています。

山南は文武に優れ温厚な人柄で子供たちや農民、行商人にも好かれていました。

山南はふつう「やまなみ」と呼びますが仲間たちの中には親しみをこめ、

さんなん」と呼ぶものもいました。

同じく子供好きの沖田からも尊敬をうけて仲もよかったといわれています。

新選組のスポンサーだった小島鹿之助こじましかのすけ「武人にして文あり」と山南を評価しています。

新選組を嫌っていたコトで知られる尊皇攘夷派の西村兼文にしむらかねふみには、「少しく時理の弁えある者(少しは物事の筋道がわかる人)」と誉め称えています。

大河ドラマで堺雅人さかいまさとが演じた山南は見事なはまり役でした。

近藤、土方との確執

(上の画像は新撰組リーダー近藤勇こんどういさみ)

副長となった山南は得意の剣で華々しい活躍をみせます。

大阪の力士と乱闘騒ぎになったときはひとりを斬り捨てています。

また芹沢鴨暗殺にも参加し、平山五郎を切り捨てるなどの成果を果たしています。

ところが大阪船場の着物屋に強盗がやってきた時には強盗ふたりを斬って追い払ったという記録を最後にその剣の冴えは途絶えてしまいます。

「池田屋事件」では屯所居残り組で「禁門の変」にも参加していません。

江戸からやってきた客人にも「病気」と称して面会を拒んでいます。

この頃から近藤土方と確執があったようで近藤が忠臣報国の心を忘れ爪牙となって功名を急ぐのをかねてからよく思っていなかったと記録されています。

脱(上の画像は土方歳三)

(上の画像は沖田総司)

その後、山南は気持ちの整理が出来なくなると突如、置手紙を残して新撰組から脱走します。

置き手紙の内容は「江戸に帰る」と内容でした。
新選組の約束事で脱走は切腹とされていましたので近藤と土方は直ちに沖田を追っ手として差し向けました。

山南は京都を出て10数キロ離れた大津に立ち寄りましたが、追跡してきた沖田に発見されてしまいます。
近藤土方が追手に沖田だけを派遣したのは、弟のように可愛がっていた沖田ならば山南も抵抗しないだろうという思惑があったと言われています。

切腹

沖田が山南を発見すると

「逃げおおせると思っていたんですか?」と山南に問いかけます。

山南は「総司を相手に斬りあいもできないじゃないか」と穏やかな表情でこたえ素直に新撰組の宿舎に戻りました。

法度を破った山南は切腹となり沖田が介錯をつとめました。
介錯とは、切腹に際し、本人を即死させてその負担と苦痛を軽減するため背後から切腹人の首を刀で斬る行為。

今まで仲良かったものを切り捨てる役割を与えられた沖田はどんなけ辛い気持ちだったのでしょうか。

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