【まとめ】新撰組、藤堂平助について刀やエピソードをスッキリ5分で解説。

新撰組は時代を超えて数多くのファンに愛されていますが、実は脱退などをした隊士を暗殺したりしていたのも事実です。

藤堂平助とうどうへいすけも殺された隊士の一人です。

「小兵ながらも剣術はよく使い、文字(学)もあった」

と評された平助さん。

本記事ではそんな藤堂平助の生涯について、分かりやすく丁寧に解説していきます。
5分ほどで読めるので最後まで読んで下さると嬉しいです。m(_ _)m

ご落胤説

近藤勇こんどういさみ試衛館しえいかんには多様な過去を持つ者達が集まってきました。

なかでもとくに異彩をはなっていたのが伊勢津藩主藤堂いせつはんしゅとうどう和泉守いずみのかみのご落胤らくいんを自称していた藤堂平助です。

MEMO
ご落胤

男の人がよそに作った子供のことです。一般庶民ではなく天皇、将軍、大名など名誉・立場ある方がお忍びで交わって出来た子

新選組幹部を務めた永倉新八がくらしんぱちの記録には、藤堂平助について「御府内浪士・藤堂和泉の守落胤」と明記されています。

藤堂家が治める伊勢津藩は、32万石を誇る大藩です。

藩主・藤堂高猷の落胤が藤堂平助であると、新選組では認識されていたとされる理由は2点。

①浪士という身分ながら、藤堂平助は藤堂家お抱えの鍛冶「上総介兼重かずさのすけ かねしげ」により打たれた刀を用いていたこと。

②藤堂家功臣が名乗ることを許された「平助」という名を使っていたこと。

これらの事から、藤堂平助と伊勢津藩との接点を窺わせます。

また、藤堂平助の伊勢津藩ご落胤説は、新選組内だけでなく、薩摩藩士にも知られていたことから、伊勢津藩のお家騒動にも発展しかねない重要事項にも関わらず、多くの人間がこのことを知っていたと考えられます。

仮にこれが藤堂平助が自ら偽った出自であったなら、とても無事で済まされるはずではありません。

しかし、藤堂平助が新選組隊士しんせんぐみたいしとして名前が知られるようになっても、暗殺に遭ったなどという話がないことからも、ご落胤らくいん説にもそれなりの信憑性があるといえるでしょう。

小柄ながらも容姿端麗で品格があり

(画像は土方歳三ひじかたとしぞう)

京都守護職会津藩本陣きょうとしゅごしょくあいづはんほんじん金戒光明寺こんかいこうみょうじの敷地内で、会津藩主松平容保まつだいら かたもり主催の御前試合が行われていました。

この御前試合に参加していた壬生浪士みぶろうしたちの中でも、とりわけ周囲の目を引く組み合わせだったのが、第一試合の藤堂平助とうどうへいすけ土方歳三ひじかたとしぞうでした。

小柄ながら「いたって美男子のよし御座候」と記録がある藤堂平助

対するは「あの仲間うちでも男っぷりもよい方である」と言われた土方歳三

残念ながら、美男子ふたりの剣術試合の結果は残っていませんが、江戸にいた頃からの知り合いだった二人は、息の合った試合展開で周囲を沸かせたことでしょう。

新撰組の発足

(画像は近藤勇こんどういさみ)

この御前試合から4ヵ月後。

壬生浪士みぶろうしたちは新選組しんせんぐみの隊名を与えられ、藤堂平助も副長助勤という役職に就きました。

千葉周作の北辰一刀流玄武館ほくしんいっとうりゅうげんぶかんで目録をうけた腕前であったが試衛館にも入り浸るようになりました。

北辰一刀流の山南敬助やまなみけいすけ、神道無念流の永倉新八ながくらしんぱちとは異なる流派の剣士が続々と近藤勇こんどういさみのもとに集まり激しい稽古に打ち込む姿に血気盛んな若き藤堂も惹かれていったのでしょう。

池田屋事件

藤堂平助はやがて試衛館の仲間たちと幕府の浪士組の集いに参加して上洛します。

藤堂は臆することなく先陣をきって斬りこんでいたため、さきがけ先生」と呼ばれていました。

 

MEMO

池田屋事件

旅館・池田屋に潜伏していた長州藩・土佐藩などの尊王攘夷派志士を、警察的な立ち位置である新選組が襲撃した事件。

 

「池田屋事件」では20数名の敵に対し新撰組は5名と数的に不利な状況でありながら斬りこみに参加しています。

参加メンバーは、近藤、沖田、永倉、近藤周平、藤堂。

藤堂は刀がボロボロになるまで奮戦しましたがひと段落したと判断し、鉢がねを外していたところを物陰から飛び出した長州浪人に頭を斬りつけられてしまいます。

永倉の助勢により一命をとりとめましたが額をきられて昏倒。

引き上げの際には担架にのせられて帰還しています。

このときの近藤勇の手紙の中には

藤堂の刀はささらのようになった

と書かれています。

また、幕府からの報奨金は、近藤勇土方歳三についで、藤堂は3番目に多いものでした。

このことから、藤堂平助の働きがどれほどのものだったかをうかがい知ることができます。

近藤や土方とは考えにズレが生じる。

(画像は伊東甲子太郎いとうかしたろう)

「小兵ながらも剣術はよく使い、文字(学)もあった」と評された平助さん。

若いながら文武両道に秀で、品格も備わった人であったので山南と気が合いました。

しかし勤王の気持ちが強すぎたため、幕府や状軍への忠誠が強い近藤や土方とは考えにずれが生じて行ってしまいます。

近藤が隊士募集のため、江戸にもどったときには、深川の北辰一刀流場主であった伊東甲子太郎いとうかしたろうを訪ねています。

勤王の伊東と藤堂は意気投合し新撰組に入るように勧誘して伊東に参加を決意させました。

尊王攘夷そんのうじょういの方向で一致していた伊藤甲子太郎いとうかしたろう近藤勇

しかし、もともと伊藤甲子太郎いとうかしたろうが勤王家であるのに対し、新選組は京都守護職御預かりとして佐幕色を強調するようになり、両者の間に軋轢が生まれてしまいました。

伊藤にとって江戸からの付き合いだった山南敬助やまなみけいすけが切腹したことも、処罰を命じた近藤勇土方歳三ひじかたとしぞうへの不信に繋がったのかもしれません。

同じ北辰一刀流を学び、また自分と同様試衛館の食客として共に夢を追ってきた山南敬助の切腹などもあり藤堂は“試衛館の繋がり”よりも“同門の北辰一刀流の繋がり”に傾いていきます。

若い心はゆれ始めていきます・・・・・。

新撰組に殺される。

(画像は永倉新八ながくらしんぱち)

伊東が新撰組から脱退するときも藤堂は近藤のもとを離れ伊東の後をおっていきます。

幕府に傾倒する近藤、土方とは考え方がちがってしまったようです。

離隊後、伊東と共に連名で幕府批判の建白書を出しています。

1867年月18日深夜、伊東が暗殺されると、藤堂は7人の部下と伊東の遺体を引き取りに行きました。

そこで待ち伏せしていた新撰組隊士から襲撃をうけます。

藤堂は四方を囲まれながらも奮戦するが次第においつめられていきます。

藤堂に一目をおいていた近藤は隊士に「藤堂だけは助けろ」と命令していましたが藤堂の顔を知らない新人隊士の三浦恒次郎に斬られ、藤堂は絶命します。

藤堂は顔面を斬られ、その傷は長さ21cm、深さ6cmに達し、即死に近かったとされます。

他方で、近藤の意志を酌んだ永倉が藤堂のために道を開けて逃がそうとしたところ、三浦が藤堂の背中を斬りつけ、

「背中を斬られては武士の恥」

と応戦した藤堂は複数の傷を負って亡くなったという説もあります。

藤堂の遺体も伊東の時のように、他の御陵衛士たちを引き寄せる囮として、2日ほど路上に放置されました。

その後、藤堂らの遺体は光縁寺に埋葬された後、生き残った御陵衛士たちによって泉涌寺の塔頭戒光寺に改葬されました。

藤堂平助の愛刀

藤堂平助の愛刀は二尺四寸二分「上総介兼重」だったと伝えられています。

新撰組隊士の中で最も高価な刀と言われていました。

互の目乱れの文と冴えた刃地、匂口と沸口が絶妙で、銘刀と名高い虎徹を彷彿とさせる圧倒的な存在感と、鍛えられた美しさを持った作りとなっています。

この刀の作者、上総介兼重は、伊勢国津藩のお抱え鍛冶です。

「源龍斎俊永覚書」によると、藤堂の上総介兼重は

「物打(刃の真ん中より先の切っ先近く)に刃こぼれが小さく11か所、はばき元(鍔の近く)に大4か所」の傷があり、修復は不可能」

とされ池田屋事件での戦いの激しさを物語っています。

修復不可能とされたためか、藤堂平助が実際に使っていた刀は残念ながら、現存していません。

また、同じ型の上総介兼重かずさのすけ かねしげ(上総介藤原兼重とも)は、東京国立博物館のリストに個人蔵ですがリストはのっていて、ホームページでは詳細な画像を見ることができます。

いわれは別ですが、京都の六堂珍皇寺にも兼重が所蔵されており、寺宝展の開催で鑑賞できることがあるようです。

現在の価格にすると一千万円はすると言われる銘刀、「上総介兼重かずさのすけ かねしげ」。

各地の博物館などで刀剣の展示会などが催されるともありますので、実際に鑑賞してみたい、という人は日頃からチェックしておくと良いかも知れません。

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