高杉晋作のエピソード、あだ名、名言を分かりやすく5分で解説。

こんにちは、歴史大好き”こっぷんか隊長”です。

本記事では、

江戸時代を語る上では外せない、

長州藩 (山口県)のヒーローである、

高杉晋作についてご紹介致します。

後に初代総理大臣の伊藤博文が、

「動けば雷電のごとく発すれば風雨のごとし!!」

と高杉晋作について語っています。
彼がいなかったらもしかしたら、日本は西洋の国々に植民地化されていた可能性もあり、そうなってたら今の私たちの生活はなかったんじゃないか!!?

とまで言われている重要な人物です。

「高杉晋作って名前は聞いたコトあるけど、何やった人?」

「高杉晋作って言われて、つり目!!というワードしか思いつかない!」

「日本史がめっちゃ苦手・・・・」

という方に5分でわかるように高杉晋作ってどんな人だったのか解説していきます。

▼高杉晋作の覚えておいて欲しいワードはコレ

・めっちゃ三味線好き。

・奇兵隊という戦闘の集団つくった。

・攘夷派(外国、日本に近寄るなぁ!ボケェ!という思想)

・吉田松陰の塾に通っていた。(松下村塾に通っていた)

高杉晋作エピソード

高杉晋作は1839年に山口県で上級武士の子として生まれました。

高杉晋作は4人兄弟でしたが高杉晋作、以外の兄弟はみな女で、

両親に凄く大切に育てられました。

そんなコトもあって、高杉晋作は

とても伸び伸びと育てられたと言われています。

とても活発で自分が正しいと思ったコトに関しては

たとえ一人でも大人に立ち向かっていく、

負けん気の強い子供でした。

高杉晋作が10歳の頃には疱瘡(ほうそう)という病にかかります。

その頃は死亡率が高い病気でしたが、名医の治療でなんとか生死をさまようも

無事コトなきを得ました。

疱瘡(ほうそう)とは赤いブツブツができてしまう病気で、奇跡の復活を果たすも

疱瘡(ほうそう)の跡が残ってしまいました。

その病気のあとが”あずき”にみえたコトから

高杉晋作は、”あずき餅”と呼ばれていました。

後にあずき餅と言われた男は、

”落雷”や”雷雨”と例えられるくらいまでに進化するんですけどね。

吉田松陰の塾でエリートに。

14歳の頃には、上級武士達が通う、

明倫館(めいりんかん)という塾に通わされます。

高杉晋作は過去の中国の歴史について学んだりする、型にはまった決まりきった

授業に全く興味がわかず、落第を繰り返します。

そんな高杉晋作の転機となったのは、とある塾との出会いでした。

その塾をやっていたのは、
吉田松陰(よしだしょういん)

名前は聞いた事がある方も多いのではないでしょうか?

吉田松陰は”長州きっての天才”といわれた思想家です。

ペリーの黒船が来航したときには、船に忍び込んで

アメリカに渡ろうと考え、幕府にお叱りをうけています。

吉田松陰は口先だけの理論だけでなく実行を重んじる人でした。

吉田松陰の塾は、
”松下村塾”(しょうかそんじゅく)

と言い、
「身分など一切関係なく勉強したい人は誰でも来て良いよ!」
「うちの塾は個性を伸ばすよ!」
「今の日本情勢について勉強するよ!!」

などといった方針だったので、高杉晋作にバッチリはまります。

この時、高杉晋作は19歳になります。

吉田松陰の塾で学んでのちに時代を動かす人が沢山でてきます。
・久坂玄瑞(くさか げんずい)
・伊藤博文(いとう ひろぶみ)
・山縣有朋 (やまがた ありとも)

などなど。

のちに
伊藤博文は初代総理大臣。
山縣有朋は第三代総理大臣。

となります。

”明倫館”では落第を繰り返していた高杉晋作は、

「松下村塾の双璧」といわれるくらい、

猛勉強しました。

環境で人ってこんなに変わるんですね。。笑

この頃の日本は、鎖国が終わり、アメリカに開国させられ

侵略されるのではないかという不安が日本中に広がっていました。

吉田松陰はそんな欧米列強の軍事力の強さを懸念し、

幕府の行った外交政策を批判していました。

吉田松陰は後に、幕府批判の罪で牢屋に入れられ死刑となってしまいます。

高杉晋作は吉田松陰がいなくなっても吉田松陰の思想を

ガッツリ受け継いで生きるコトとなります。

1862年に高杉晋作は藩の命令をうけて、吉田松陰の夢でもあった

海外視察に行きます。

その行き先はなんと中国(上海)!!!

しかしそこで悲惨な状況を目の当たりにします。

その頃の中国はイギリス、フランス、アメリカから、

半分植民地状態でした。

これを見た高杉晋作は危機感をつのらせます。
「日本も中国のように植民地化されてはまずいぞ!!!」
「今の日本の幕府では海外からの脅威に立ち向かえないはず!!」

こうして高杉晋作は、外国人ぶっころーーーーーーーー!!

という、攘夷運動(じょうい)を始めます!!

攘夷運動

高杉晋作はなんとしても、日本を外国から守るためにと

行動におこします。有名な事件で言えば
イギリス公使館の焼き討ち事件。。。。

そして、関門海峡(山口県と福岡県を隔てる海峡)で欧米国の船を

大砲でボンボンっ!!と

砲撃します。(下関戦争)

しかし翌年、仕返しをうけてあえなく敗れます。

これではダメだ。

もっと強い軍隊が必要だ!!と、

長州藩(山口県)内で、奇兵隊(きへいたい)というめっちゃ強い軍隊を作ります。

奇兵隊の参加条件は、身分など一切とわず、

自国を守りたい!!という者なら誰でも参加OK!!

というモチベーション重視の軍隊でした。

この考えは、松下村塾(しょうかそんじゅく)の参加条件と似てますね。

凄い評判の良かった奇兵隊ですが、

奇兵隊の部員が人殺し事件をおかしてしまい、

その責任をとることから奇兵隊のTOPの座を降りてしまうことになります。

同じ頃、外国人ぶっころ!!の、長州藩士は、京都で幕府軍と衝突してしまいます。

1864年に「禁門の変」がおき、幕府から更に敵対視されるようになりました。

その上、長州付近の海ではイギリス、フランス、アメリカ、オランダの連合軍が長州藩に、

攻めてきて下関の一部が外国人に占領されてしまいます。

そこで、長州藩は、高杉に相談することにしました。

長州藩もなんだかんだ、高杉の能力の高さに一目置いていたんですね。

日本を攻めてきたイギリス人は、

日本に交渉を持ちかけます。

停戦する変わりに300万ドルを要求してきました。

日本円でいうと、900億円の賠償金です。

高杉はこれをなんと。。。。

強気に拒否!!!
外国艦隊との戦争の責任は幕府にあるから幕府に要求しろや!!!

と言い放ちます。

それを聞いたイギリス人の方は、

「こちらの意見をのまねば攻撃をまた再開しますよ。。」

と脅しをかけるのですが、

高杉晋作は言い放ちます。

「長州には命を惜しまぬ人間はたくさんいる!かっかったこいやあ!!」

と言ってそんな脅しにも屈しなかった。

その時の高杉晋作の様子が書かれた書記が残っているのですが

‘魔王のように傲然(ごうぜん)租借としていた‘

と記録しています。

結局、イギリス側が要求した賠償金は幕府が払うことになりました。

幕府かわいそう。。。。。

他にも多くの条件を突きつけてきたイギリスですが、

断固として高杉晋作が拒否したのが、
”領土の租借”

「領土の期限付租借」の意味するところ(植民地化)を深く見抜いていたからで、
「もしこの要求を高杉晋作が受け入れていれば日本の歴史は大きく変わっていたであろう」

と伊藤は自伝で記している。

第一次長州征伐

その頃、またひとつ長州に危機がせまります。

長州藩の過激な行動をみかねた幕府は、長州を征伐するコトを決めます。

幕府軍15万人も長州征伐に派遣します。

因みに長州軍は、なんと。。。。4000人。すくなっ!!

そんなコトもあり、

長州藩では幕府に謝罪しよう!という人がたくさん現れます。

そして幕府に反抗するのを辞め、幕府のいう事をこれからは聞き入れることを決めました。

そういった方たちは、過激派の高杉晋作らの追放をこころみます。

身の危険を感じて、高杉は一旦、福岡に逃げました。

このままでは長州はおろか、日本国は、ほろびてしまう。。。

高杉は行く末を心配します。

そこで、まず長州藩内の保守派を撃つことを決意します。

有志を募り、保守派打倒に向かったのです。

でも、もうその頃は奇兵隊もすでに保守派寄りのトップの手に渡っていました。

もうみんな弱腰な状態でした。

それでも、高杉は奇兵隊に

「今こそ立ち上がるべきだ!!」

と奇兵隊の挙兵を呼びかけたのです。

しかし、トップの反対を押し切り高杉に加勢する兵は出てきません。

そこで国をまわり攘夷派の武士を集めようとしました。

けれど、高杉の挙兵の呼びかけに答えて集まったのは100人にも満たない数。

それに対して長州藩の保守派は2000。

さらにその後には150万もの幕府軍も控えています。

それでも彼はそのまま挙兵を進めました

高杉は、憂国の想いの強さは自分たちの方が勝っていると思っていました。

その思いがあれば、打ち勝つことができると信じていたのです。

その彼の強い意思が、奇兵隊や志士に伝播したのでしょう。

初めは動かなかった奇兵隊の兵士が、高杉の行軍に加わるようになりました

いつの間にか高杉軍は、奇兵隊を始め3000もの人数に増えていました。

その数は、藩の中心まで進軍する間にもどんどん増していったのです。

こうして、高杉軍は保守派の抵抗をうち破り、長州藩の保守派を倒しました。

ここから長州藩は攘夷派が政権を握り、今度は打倒幕府をめざしていくのでした。

しかし、今度はこの事を知った幕府が危機感を強めます。

そこで、いよいよ幕府が本気になって長州を

撲滅しようと軍を立ててきました。

この時は海から軍艦で長州藩を攻めて来た幕府でしたが、

高杉率いる長州藩が奇襲作戦で打ち破ります。

彼は闇夜に紛れて、海にいる大きな幕府軍の軍艦に小舟で近づき、接近戦で攻撃したのです。

この奇襲が大成功。

幕府軍の姿勢は乱れ、大敗するということになりました。

これは、幕府軍の力もすでに衰えていたことの現れだったのかもしれません。

しかし、高杉の活躍はこれが最後でした。

彼の体は病魔に侵されつつあったのです。

そして1868年、

明治維新を目の前に、高杉晋作は27歳の若さでこの世を去りました。

なんだか、疾風のように幕末を駆け抜けて行ったような生き様ですね。

まるで生き急いだような、彼の純粋な憂国の気持ちは、彼の名言からも見て取れます。

次は、そんな彼の心がにじみ出ている名言をご紹介していきましょう。

名言

高杉晋作の名言について解説していきます。

多くの名言の中から私がみんなに知って欲しいものを厳選し、尚且つ勝手にランキングにしました。

おもしろきこともなき世を面白く。

この名言は高杉晋作の名言の中でも一番有名なものです。

真の楽しみは苦しみの中にこそある

楽しむコトと楽をするコトは違うと現代社会でもよく言われますよね。

何かに苦しみ必死で乗り越えた先に待っているもの、感動や笑顔。

そういったものが本当の意味での楽しみなんですね。

苦しいという言葉だけはどんな事があっても言わないでおこうじゃないか。

過ちを改めればそれは過ちではないのだ

世間から愚者と思われる人になろうと僕は願った。

まとめ

高杉晋作のエピソードをこうやって振り返ってみると、

明治維新の様子とかをなんとか生きている間にみせてあげたかったなあという

いう想いがわいてきます。

高杉晋作の残した名言や生き様を現代に生きる私たちはしっかり受け継いで

生きていきたいですね。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です