【まとめ】斎藤一の強さや妻、写真などスッキリ5分でスッキリ解説

こんにち。 
歴史大好き”こっぷんか隊長”です。

時代を超えて数多くのファンに愛されている新撰組ですがその中でも謎が多い人物とされているのが斎藤一です。

世間一般には極悪非道のイメージが強いですが実は非常に忠誠心があり、恩義を忘れない人だったとご存知ですか?

本記事ではそんな斎藤一の生涯について、分かりやすく丁寧に解説していきます。
5分ほどで読めるので最後まで読んで下さると嬉しいです。m(_ _)m

新撰組に加入

新選組では、沖田総司おきたそうじ永倉新八ながくらしんぱちと並ぶ「最強の剣士」の一人といわれていた齋藤一。

幕府御家人、山口祐助の次男として生まれます。

斎藤一は幼いころから剣術を学び試衛館にも出入りしていました。

しかし10代の終わりにちょっとした意見の食い違いから人を斬ってしまいます。

報復を恐れた若き殺人犯は京都の知人を頼って江戸を離れその際、姓を斎藤と改めました。

やがて試衛館の顔なじみの面々が浪士組ろうしぐみとして京都にやってきます。

20歳になった斎藤は会津藩預かりとなった壬生浪士組みぶろうしぐみが隊士を募集しているのを知り、駆けつけます。

MEMO
壬生労使組・・・新撰組の初期の名前

腕に覚えのある斎藤はすぐさま同年代の沖田総司おきたそうじや藤堂平助らと共に副長助勤を任されます。

沖田に次ぐと評される剣の腕を近藤勇こんどういさみ土方歳三ひじかたとしぞうが高く評価していました。

池田屋事件

そして斎藤は新撰組で次々と手柄をたてていきます。

そして齋藤一が20才の時は池田屋事件に参加しています。

華々しい活躍は伝わってませんが幕府からの報奨金は高く奮戦したことは確かなようです。

 

池田屋で反幕府派の重要人物を斬った新撰組の報償金一覧。

・【局長】近藤勇が約600万円。

・【副長】土方 歳三が約460万円。

・沖田 総司ら隊長には約400万円。

 

平隊士でも約300万円のボーナスが支給されたと記録にあります。

MEMO
池田屋事件とは、旅館・池田屋に潜伏していた長州藩・土佐藩などの尊王攘夷派志士を、警察的な立ち位置である新選組が襲撃した事件。

『新選組』が力を持ち出すと、局長の近藤は同士を

・家来のように扱う。

・言う事を聞かないと剣を抜く。

など天狗になっていきます。

こういった近藤の振舞いに憤った新撰組の6人は、近藤の非行を5つの箇条書きにして『新選組』の後ろ盾であった会津藩の藩主、松平容保に訴えます。

元々友人のような対等な関係だったのに、近藤が次第に増長し、まわりを見下すような態度をとったのが許せなかったのでしょう。

結果的には和解して新撰組に残ることになりますが近藤から少し距離を置く反主藩の隊士となります。。

スパイ役として活動

間もなくし新撰組参謀として伊東甲子太郎が参加します。

伊東と近藤は考え方が根幹から違ったため結局は折があわず伊東は新撰組からの分離独立を決断します。

その際、永倉か斎藤のどちらかが欲しい」と伊東は近藤に要請。

斎藤が伊東についていく形となりました。

実はこれはスパイとしてもぐりこませる近藤の狙いであった可能性が強いと言われています。

その直後、斎藤の手引きで伊東の暗殺計画が実行されることとなりました。

戊辰戦争

斎藤一さいとうはじめは、「戊辰戦争」で「鳥羽伏見の戦いとばふしみのたたかい」などで山口次郎と名前を変えて参加。

(どんなけ名前変えるんだって突っ込みをいれたくなりますね)

近藤が官軍に降伏した後は会津にむかい、宇都宮戦で負傷した土方に代わり新撰組の隊長を任されています。

その後、激戦となった母成峠の戦いに敗れると、斎藤は窮地に立たされました。

この場で土方と別れを告げ10数名の同志と残留します。

残留組はその戦いで全滅したと伝えられていますが脱走して生き残ったものも多く、斎藤も一戸伝八と名を変えて新政府軍に投降し生き延びています。

警視庁で働く。

戊辰戦争ぼしんせんそうが終結し明治に入ると、斎藤は新政府の警視庁で働き始めます。

彼はこの頃に「藤田五郎」という名前に改名したと言われています。

(どんなけ名前かえるんでしょうね笑)

子孫の話によれば、この名前は、旧会津藩藩主きゅうあいづはん松平容保まつだいらかたもりから賜ったものだそうです。

こうしたことからも彼と会津の深い絆が伺えます。

斎藤はその半生をほぼ会津人として過ごしたといえます。

戊辰戦争ぼしんせんそう後、斎藤は会津藩士あいづはんしらと共に新たに与えられた斗南藩となみはんに移動しました。

ここで名家の娘と結婚しますが、3年後には旧会津藩の大目付だった高木小十郎の娘・時尾ときおと再婚しています。

その際、旧会津藩主の松平容保まつだいらかたもりや旧会津藩家老たちが仲人となったことは特筆すべき点でしょう。

東京で警察官として働いたことも、旧会津藩の名誉挽回のためだったといわれています。

斎藤がこれほど会津に忠義を尽くしたのは新選組、結成時の恩を忘れなかったからだといわれています。

新選組は京都守護職きょうとしゅごしょくでもあった松平容保まつだいらかたもり直下の組織でした。

浪人上がりだった斎藤らを差別せずに頼ってくれた会津藩、特に容保にはこの上ない恩義を感じていたのでしょう。

新選組の前身である壬生浪士みぶろうしが結成された頃の斎藤は、沖田と同じく20歳前後の多感な青年時代だったため、その思いが特に強かったと思われます。

第二の人生を歩みだした斎藤一は新政府の警視庁に採用され、西南戦争せいなんせんそうに警視隊として参加し血戦を繰り広げて奮闘しました。

その後も警視庁で警部まで務め、退職後は旧会津藩士の口利きなどで博物館教育施設教育機関の守衛撃剣師範げっけんしはんとして学生に撃剣を教えます。

晩年は会津戦争にて戦死した隊士たちの供養に奔走し、ダークでアウトローなイメージとは真逆の人生を過ごし穏やかな晩年を過ごしました。

武家の娘と結婚。

時尾ときおは武家の娘という由緒正しきお嬢様でしたが、会津戦争の際は鶴ヶ城つるがじょう内で負傷者の応急手当をし、降伏後も半年以上放置された遺体の埋葬を手伝うなど、肝の据わったエピソードが残されています。

強く優しい女性だったことが分かりますが、その姿は明治後半になっても変わりありませんでした。

明治40年(1907)には会津戦争の戦死者慰霊せんししゃいれいのための植樹を、その翌年には阿弥陀寺あみだでらにお墓を購入するための寄付を呼びかけています。

時尾自身もかなりの寄付をしたようです。

会津に生まれ会津のために尽くし続けた妻がいたことで、斎藤の会津への想いはより一層強くなっていったのでしょう。

齋藤一のお墓

斎藤のお墓は、福島県会津若松市あいづわかまつし阿弥陀寺あみだでらにあります。

晩年の斎藤は東京で亡くなりましたが、葬られた場所は東京からかなり距離のある会津です。

彼は生前、「会津に墓を建てて欲しい、東軍墓地がある阿弥陀寺に埋葬してほしい」といった遺言を残していました。

その願いが叶い、彼のお墓はこの地に建てられたのです。

ここには戊辰戦争で戦死した会津藩士たちの墓もあり、かつての仲間たちと共に恩義のある会津の地で安らかに眠ることは、斎藤にとって幸せなことだったでしょう。

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