【まとめ】永倉新八の逸話や強さについて5分でスッキリ解説。

こんにちは、歴史大好き、こっぷんか隊長です。

新選組って、いろんな二次創作作品のおかげで、なんかもうファンタジー化してますね。

今の時代にこうやって新撰組がかっこよい集団として認知されているのは、ある人物のおかげです。

ある人物とは……永倉新八ながくらしんぱち

永倉新八ながくらしんぱちは数少ない生きた証人であり、彼が残した手記やインタビュー内容は、当時の幕末を語る貴重な資料となっています。

近藤勇こんどういさみ沖田総司おきたそうじなど、キラキライケメンに書かれたゲームや漫画に登場する人物に比べると、ちょっと目立ちませんが、永倉新八は新選組最強の誉れも高い人物です。

本記事ではそんな永倉新八の生涯について、分かりやすく丁寧に解説していきます。
5分ほどで読めるので最後まで読んで下さると嬉しいです。m(_ _)m

永倉新八のエピソード

池田屋事件いけだやじけんで刀と防具がボロボロになるまで戦う。

②脱退覚悟で近藤勇の横暴を会津藩主へ訴える。

鳥羽・伏見の戦いとばふしみのたたかいで決死隊を率いる。

記念碑をたてたり後世に新撰組を伝える。

永倉新八エピソード

永倉新八のあだ名は「がむしん」。
がむしゃらな性格だったコトから、

【がむしゃら新八→がむしん】

と呼ばれていたそうです笑

現代っぽいあだ名ですよね。

松前藩士、永倉勘次の子息として育った永倉新八。

150石取りの家を継ぐ身でありながら剣術稽古のため19歳で脱藩して武者修行の旅に出ます。

MEMO
150石を今の給与に変換すると年収700~800万です。

家を継げばそこそこ良い暮らしが出来たものの、

見つかれば死罪という脱藩をするって中々勇気がある行動ですよね。

脱藩する際、実家に迷惑をかけまいと永倉に苗字を変えています。

自分の意思を大切にしながらも周りの人に配慮出来る所がこの方の素晴らしい点です。

近藤勇と出会う。

修行中、試衛館の近藤勇に出会い、意気投合して道場の食客となります。

そこで土方歳三ひじかたとしぞう沖田総司おきたそうじ山南敬介やまなみけいすけらと知り合い、稽古の後には酒を飲んでは彼らと天下国家を論じていました。

永倉は酒好きで更には女好きでもあった為、壬生浪士組を結成当初は芹沢鴨とも気が合う仲でした。

そのため、芹沢鴨せりざわかも暗殺計画を知らされず、近藤が告げた「長州の者」が殺したという話を長い間信じていました。

芹沢鴨せりざわかも・・・短気で粗暴、かんしゃくを起こし、すぐに揉め事を起こしました。彼にまつわる悪行は数多く伝わっています

池田屋事件

新撰組が一躍全国に名を轟かせたのは池田屋事件いけだやじけんです。

MEMO
龍馬が暗殺された「寺田屋事件てらだやじけん」とは違うので注意してください。
 

池田屋事件とは、旅館・池田屋に潜伏していた長州藩・土佐藩などの尊王攘夷派志士を、警察的な立ち位置である新選組が襲撃した事件。

「池田屋事件」では20数名の敵に対し新撰組は4名と数的に不利な状況でありながら永倉も斬りこみに参加しています。

2時間におよぶ乱戦の中で永倉新八は額を斬られた藤堂平助を助け防具がボロボロになりながらも奮闘します。

この戦いで左親指を負傷しましたが永倉の活躍もあり新撰組は見事、尊王攘夷派志士そんのうじょういししをとらえ世間に名が轟くようになります。

池田屋で反幕府派の重要人物を斬った新撰組には、

局長・近藤勇が約600万円。

副長・土方 歳三が約460万円。

沖田 総司ら隊長には約400万円。

平隊士でも約300万円のボーナスが支給されたと記録にあります。

新撰組に亀裂

芹沢鴨暗殺以降、近藤の態度が増長したと隊士に映り、新撰組内で亀裂が生じ始めます。
不満に思っていた永倉は、斎藤一さいとうはじめ原田佐之助はらださのすけ島田魁しまだかいらとともに会津藩に「非行5カ条」を提出します。

新撰組崩壊の危機でしたが、松平容保じきじきの仲裁が入り近藤と形式上、和解しています。

納得がいかない永倉はその後も老中の松前藩、松前崇広に取り合いましたが謹慎処分にさせられています。

近藤と別れて松前藩に帰藩

(上の画像は近藤勇)

新選組は戊辰戦争で旧幕府軍として戦いますが、後の明治政府となる新政府軍に大敗してしまいます。
戦いの中で多くの志士が散り、新選組の幹部クラスで生き残ったのは斎藤一さいとうはじめ島田魁しまだかい永倉新八ながくらしんぱちの3名のみでした。

永倉は新政府軍との「鳥羽伏見の戦い」では二番組のほか沖田の抜けた一番組も率いて奮闘しました。

やがて官軍との戦いで形成が悪くなり、甲州・勝沼では敗戦。

そのとき近藤が永倉に対して「家来にならなければ同志とは認めない」と暴言をはいた事でついに永倉は頭にきて近藤と袂をわかつことになります。

永倉は松前藩浪人で旧知の、芳賀宜道を隊長とする「靖共隊せいへいたい」を結成します。

苦戦しながら奥州を転戦し会津へと向かいます。

しかし会津城が落城したために江戸に引き返して松前藩に出頭。

無事、帰参を認められてのちの藩医、杉村介庵の婿養子となりました。

永倉新八の逸話。

(上の画像は土方歳三)
その後は新政府軍に敵視されながらも死んでいった仲間たちの供養と稀代の悪と軽蔑された新撰組の評価をただすことに尽力していきます。

永倉は東京の板橋に近藤、土方の碑を建立。

その碑の右には39名。左には71名の旧隊士の名が刻まれています。

永倉にとって苦楽を共にした新撰組の仲間たちは大切な宝でした。

永倉新八の強さ。

(上の画像は沖田総司)

新選組志士のひとり、阿部十郎は、新選組幹部の強さについて
「一に永倉、二に沖田、三に斎藤の順」
「(永倉の稽古は)沖田よりはちと稽古が進んでおりました」

という評価を残しています。
天才剣士として知られる、あの沖田総司よりも永倉の評価は上です!

ちなみに永倉新八自身は、沖田総司の剣について

土方歳三、井上源三郎、藤堂平助、山南敬助などが竹刀を持っては沖田に子供扱いされた。恐らく本気で立ち合ったら師匠の近藤も沖田にやられるだろうと皆が言っていた」

と語っています。

新撰組の内部事情などを知り、後世に伝えている人は主に永倉新八で、

自分の強さをベラベラ話すような人でなかったところを想像すると、阿倍十郎の話は事実なのかもしれないですね。

晩年は孫と映画館へ

永倉新八の晩年は穏やかで、よく孫と映画館に通っていたそうです。

ほのぼのしますね。

ある時、映画館で地元のヤクザ数人に絡まれましたが、持っていたステッキでヤクザ3名に即座に突きを入れ、鋭い眼光と一喝でヤクザを圧倒したというエピソードが残っています。

常に戦いの前線に身を置き、人を斬ってきた人間の凄みってものがありそうですよね。

ただの爺さんと子供と思って絡んだヤクザもびっくりでしょう。

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