【まとめ】板垣退助のエピソードや名言についてスッキリ5分で解説。

こんにちは。

歴史大好き”こっぷんか隊長”です。

本記事は、誰でも1度は名前を聞いたことがある板垣退助について書いていきます。

ただ実際に何をやった人か聞かれると直ぐに答えられますか?

そんな方のために板垣退助について、分かりやすく丁寧に解説していきます。

5分ほどで読めるので最後まで読んで下さると嬉しいです。m(_ _)m

幼少期は腕白坊主

土佐藩の上士で、乾家の長男として生まれた板垣退助の少年時代はまさに悪童あくどうと呼ぶに相応しい腕白ぶりでした。
喧嘩好きはなかなか直らず、藩から謹慎処分きんしんしょぶんまで受けています。

そんな退助に度量の大きさを見出だしたのが土佐藩の政治家、吉田東洋よしだとうようでした。
東洋は、退助に教えを施して政治に参加させたほか、江戸にいる藩主の山内容堂やまうちようどうの側近役に任命しています。

まさかの倒幕思考!?

容堂も退助の器の大きさを愛して重用していたので退助もようやくエリートらしく振る舞うかと思われました。

ところがこの頃の退助は既に尊皇攘夷論そんのうじょういろんに頭が向いていて、公武合体論こうぶがったいろんを掲げる容堂と相反する倒幕思想とうばくしそうを持っていました。

藩の絶対的権力者が可愛がってくれているというのに退助は自分の考えを曲げようとしませんでした。

それどころか、土佐藩の尊皇攘夷派そんのうじょういはである、中岡慎太郎なかおかしんたろうに出会って思想を強固にし、薩摩藩の西郷隆盛らと武力倒幕の密約を交わしてしまうほどでした。

軍事家の才能を発揮。

大政奉還によって幕府は、終焉しゅうえんを迎えましたが、退助はその後の戊辰戦争ぼしんせんそうで、
総督府参謀そうとくふさんぼうとして旧幕府軍と戦います。

退助は洋式の先進軍事技術を学んでいたコトもあり、この戦いで天才的な軍事指揮を見せつけました。

板垣はかつて武市半平太たけちはんぺいた坂本龍馬さかもとりょうまが属した土佐勤皇党とさきんのうとうの藩士を中心に迅衝隊じんしょうたいを組織し、その総督として各地を転戦しました。

近藤勇こんどういさみの新撰組を中心とする軍隊を破り難攻不落といわれた会津若松城あいづわかまつじょうを攻め落とします。

こうした功績もあって明治政府の参与に就任しましたが、やがて征韓論を指示したコトにより失脚してしまいます。
(同じように朝鮮と戦うべきと主張した西郷隆盛も明治政府を去りました。)

このころから、板垣は明治政府の政策の決め方に疑問を持ち、民衆の意見を取り入れる議会政治を目指して活動を開始し、生涯を捧げます。

征韓論

明治初期の日本で巻き起こった征韓論せいかんろんは、明治政府が送った国書の受け取りを拒否するなど、日本に無礼な態度を取り続けていた朝鮮に出兵することを主張した論です。

日本では江戸時代後期から朝鮮進出を唱える議論があり、朝鮮側はそれに反感を抱いていました。朝鮮側では国内での鎖国攘夷の機運の高まりもあり、日本との国交交渉を拒否。

さらに朝鮮にある大日本公館の門前に「日本は無法の国」と非難する看板が出されたことなどから、板垣らは居留民保護などを理由に出兵を主張しました。

明治6年の政変

その後、征韓論を巡って明治政府内で激しい論争が起きます。

板垣や西郷隆盛さいごうたかもりらが主張する征韓論に対し、ヨーロッパ視察から帰った岩倉具視いわくらともみ大久保利通おおくぼとしみちらは強く反対。

ヨーロッパの強国を見てきた大久保らとしては、日本は内政を充実させ、産業を整備し国力を増強することがなによりの課題と確信していました。

一度は征韓論派の意見を奏聞する運びとなりますが、岩倉、大久保の活躍で覆され、西郷、板垣らとそれに同調する軍人官僚約600人が政府を去り、明治六年の政変と呼ばれる大きな政治事件となりました。

板垣退助の名言

自由民権運動じゆうみんけんうんどうというのは、国会の開設、憲法の制定、不平等条約の改正などを要求した運動です。

当時の自由民権運動は、必ずしも退助の理念どおり発展したとは言えませんでしたが日本の民主政治の草分けとして非常に意義のあるものでした。

そしてその功績はのちに、「自由民権運動の父」として広く民衆に称えられるコトになります。

板垣は全国各地で演説を行いましたが、岐阜県で暴漢に命を狙われた際、

「板垣死すとも自由は死せず」

の名言を残したコトで有名です。

戦後100円札の紙幣に。

今は板垣退助と聞いても、「なんか教科書で習ったことがあるなぁ~」というくらいの印象しかないかもしれません。

ただ、少し前は誰もが板垣退助のことを知っている時代でした。

その理由は紙幣に肖像画が使用されましたからです。

板垣退助の100円札は、初期、前期、後期に分けられ、未使用で保存状態がよい場合には、初期は数万円、前期は数千円、後期は1000円前後の価値があると言われています。

ミスプリントやお札のナンバーが揃っているものは、さらに価値が上がるようです。

もっていてこだわりがないのなら、査定してもらうのもありかもですね。

ルイ・ヴィトンを購入。

襲われたのと同じ年、1882年にともに土佐藩士だった後藤象二郎ごとうしょうじろうとともにフランス・イギリスなどへの外遊に出かけました。

その時に、ルイ・ヴィトンのトランクを購入していることが、ルイ・ヴィトンに残された記録から分かっています。

そのトランクは現在、高知市立自由民権記念館に寄託されています。

自由民権記念館

退助が主導した自由民権運動じゆうみんけんうんどうは民衆の政治に対する意識を大きく変え、近現代の民主政治発展みんしゅせいじはってんに多大な影響を与えました。
退助の故郷である高知県には「高知市立自由民権記念館」があり、土佐の近代史や自由民権運動に関する様々な資料が展示されています。

◆自由民権記念館

【料金】大人:320円子供:無料
【休刊日】月曜
【時間】午前9時30分~17時
【アクセス】JR 高知駅から15分

 

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